山崎(やまさき)淑子(としこ)/Sarah Yamasaki の職歴と歩み
2011/01 現在

ご挨拶

勤務歴

「Marie Kadan」ブランド・オーナー/デザイナー(2003年~2005年)
東京港区、広尾の外苑西通りに本社を、パリに事務所を、イタリアのコモ湖にアトリエを持つ花鳥風月柄&エコ・プロダクツのデザイン・製造・ネット販売会社(B2B/B2C)。自社ブランド“マリー・カダン(花壇眞理恵)”名でオリジナル製品を開発・販売。バイヤーとして長年ニューヨークで培った感性とノウハウを集大成し、インターネット上にギャラリーを運営。アート&クラフトと職人を発掘し、育成する事業会社を設立した。「マエストロ(職人)マーケター」として技術を芸術に、芸術を商品に、商品を社会貢献事業に成長させるビジネス・モデルを完成、地球的規模で展開していた。役職は代表取締役社長。

95年~97年: 「バークドルフ・グットマンNY本社」 役職:日本市場マーケティング兼ファッション・コンサルタント
88年~91年: 「(株)アルク米国現地法人」ALC Press USA, Inc New York 役職:副社長兼務トレジャラー/駐米支局長/ゼネラルマネージャー
85年~87年: 特殊法人「国際観光振興会(機構)」ニューヨーク宣伝事務所 役職:広報官/PR “インフォメーション・オフィサー”

経験と実績

ジャーナリスト/編集者、声楽家/音楽プロデューサー、随行通訳/同時通訳、翻訳家、日本語教師、コーポレイト・コミュニケーションズ、PR & IRコンサルタント、テキスタイル/プロダクツ・デザイン、インテリア・デコレイター、花鳥風月・植物画(油絵、アクリル画)。ファッション・ブランド“Marie Kadan”デザイナー・オーナー。

生き方と雪冤活動

米国永住権所持(1987~2007)の在米日本人。平和と環境運動家、社会貢献事業/慈善事業家:中・高校生時代を米国フィラディルヒィアで、大学は東京へ戻り、大学院はニューヨークのニュースクール大学院修士課程メディア学専攻。NYパーソンズ・スクール・オヴ・デザイン(芸術大学)、ボタニカル・アート専攻。1974年より2007年5月まで米国在住。オペラ歌手(メゾ・ソプラノ)として2000年10月11日ニューヨーク、マーキン・コンサートホールで英語歌劇「Ash Boy灰坊」でプロ・デビューを果たす。ニューヨークで911テロ被災後、米国赤十字ホボランティアとして現地「家族支援センター」で無償の奉仕活動を行う。これが高く評価され米国赤十字から感謝状を授与される。

被災1カ月後の2001年10月11日から2か月間、日本に滞在し、メディアや教育機関などからの講演依頼に応じて「911被災者として、倒壊直後の現場グラウンド・ゼロで、私は何を見たか?」、「ニューヨーク現地での災害救援とボランティア活動」、「911事件後に変容したアメリカ・メディアによる戦意高揚と偏向報道の実態」、「アフガン侵攻と愛国者法、テロ特措法に反対します」、「アメリカの戦争へ加担するのは日本の国益に反する:これだけの理由」「自国の防空が機能せず911を防げなかった米軍が制空権を押さえる日本国土で“抑止力”が機能しないシナリオ―米軍は日本を守らない、保護しない」などをテーマに講義、講演旅行を行った。

この間の講演場所とインタビュー取材露出媒体
日本損保協会、メディア総研、TBS全国ネット防災委員会、民放連、日本プレスセンター、 立教大学、武蔵大学、日本外国特派員協会、大阪毎日放送、大分放送など。 インタビュー掲載媒体は、読売新聞、Gallacなど。

◎主な演題と講演内容:
「911と阪神淡路大震災での2重被災体験」
「ニューヨーク現地での災害救援とボランティア活動」
「オサマ・ビン・ラディンは、ブッシュ家と親しいビジネス・パートナーだ。と、いうことは…」
「911被災者として、倒壊直後の現場グラウンド・ゼロで、私は何を見たか?」
「911事件後に変容したアメリカ・メディアによる戦意高揚と偏向報道の実態」
「アフガン侵攻と愛国者法、テロ特措法に反対します」
「アメリカの戦争へ加担するのは日本の国益に反する:これだけの理由」
「アフガンが広島/長崎になりかねない米国民の激昂と復讐心:報復戦争に反対すべき被爆国・日本に求められる平和外交」
「自国の防空が機能せず911を防げなかった米軍が制空権を押さえる日本国土で、
“抑止力”が機能しないシナリオー米軍は日本を守らない、保護しない」
「ブッシュ政権のネオコン・メンバーが代表する利権を見れば、戦争と殺戮が見えてくる」
などをテーマに講演旅行を行った。

その後、ニューヨークへ戻ってからの10ヶ月間は、グラウンド・ゼロの定点観測と粉塵サンプル採取を行い、現場の撮影と調査取材を継続的に行った。2002年9月~10月、日本出張中に急性肺炎を患い、東京の総合病院に入院した。入院中にニューヨークの自宅・事務所が家宅捜査され、パソコンから顧客情報、調査報道した資料やサンプルを含む個人財産の大多数を米国連邦政府の、複数の捜査機関によって強奪・持ち去られた事実を、退院後に知る。2005年7月28日、東京で突然、日本政府・法務省に拘禁され、同日、東京拘置所へ収監。愛犬を取り上げられる。東京高裁において1回、40分だけの審問が行われたが、この時、十分な審理がなされぬまま出された「引き渡し決定」に対して「不服申し立て」や上告の権利は与えられず、重大な憲法違反(25条、31条、34条違反)ならびに国連拷問等禁止条約違反、国際自由権規約違反がなされ、その結果として重大な人権侵害と冤罪被害をもたらした。

3ヶ月間、東京拘置所へ収監されたのち「日米逃亡犯罪人引渡条約」によって、同拘置所内で米官憲の手に引き渡された。成田空港からニューヨーク市内ダウンタウンにあるMCC, New York(ニューヨーク・メトロポリタン・コレクショナル・センター)へ強制送還され、11ヶ月間、無実の長期勾留による拷問・虐待・感染症罹患・食中毒など劣悪な処遇に耐えた。政治犯として投獄されたアメリカ人ジャーナリスト・平和運動家と共に、5ヶ所の異なる監獄に長期未決勾留され、652日間の過酷な服役生活を生き延びた。

この間、苛烈きわまる拷問・虐待・性暴力に遭い、低体温症やB型肝炎、頻発する食中毒など感染症や病魔に襲われる。これは同時に、米国監獄と刑事司法の実態をつぶさに現地調査・取材する機会に恵まれた事を意味する。合計4800人の収監者に会い、250人からインタビューを取り、聴き取り実態調査を行う。司法取引を受け入れたものの、話が違って不当判決が下され、2006年7月19日に「禁固2年の実刑」が言い渡される。2006年9月13日にコネチカット州ダンベリー刑務所に移送、6ヶ月半、服役した。「模範囚」を理由に刑期短縮され、2007年3月26日に刑期満了で出獄。その後、ヨーク州立移民刑務所へ収監され、さらなる拷問・虐待・ネグレクトの結果、気管支喘息の発作による重度の呼吸困難によって命の危険にさらされる。必要な投薬や酸素吸入治療などを行ってもらえなかったのである。やむなく裁判権を放棄し、日本へ帰国して適切な喘息治療を受診することを決意。「米国永住権を維持するための裁判権」を放棄することを交換条件に、2007年5月9日に移民刑務所から解放され、ハートフォードにある代用監獄を経て、同年5月10日に、ニューヨークJFK空港から日本に強制送還され、九死に一生をえて成田空港に11日に帰国した。

こうして冤罪被害者となり、日比谷公園でのホームレス体験を経て聖路加国際病院に救済され、その後、2年8ヶ月間の闘病&リハビリ生活を送った。2010年1月現在は、療養生活を東京の下町で送りながら、体験に基づいた米国監獄政策の実態報告と日米関係の実録ルポを執筆中。歩行機能も向上し、雪冤活動に奔走する忙しい日々を送る。