9/26追記 【代表Column】

「アメリカの独立戦争へいたるボストン茶会は、東インド会社の謀略によるもので、アメリカ国旗は「東インド会社」の旗から英国の国旗の部分を星に入れ替えてできたとバックミンスター・フラーは言っていた。」と井口氏が述べている(下記)。

が、英国、東インド会社、アメリカ合衆国の旗をならべて見ると、1776年7月4日独立宣言の前後およそ1年強のあいだ、アメリカの旗は東インド会社の旗だったことがわかる!

つまり、『アメリカ合衆国は東インド会社北米支店だった』のである。

2011/9/26  【川崎泰彦 記】

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■  商人から海賊へ

ウィリアム・キッド
Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム・キッド
より

【引用開始】
ウィリアム・キッド(William Kidd, 1645年 – 1701年5月23日)は、スコットランド西部生まれの私掠船、海賊船の船長。キャプテン・キッドの別名が広く知られている。
■ 生涯
グリーノック生まれ。ニューヨーク州に移住し、その地でサラ・ブラッドレイ・コックス・オートと結婚する。夫婦の間にはエリザベスとサラ・キッドという2人の娘が生まれ、妻方の資金を活用し、キッドは裕福な商人として生計を立てていた。
イギリスに商品を売りさばきに出向いている時に、キッドは海賊退治を含む私掠船の許可を得る機会を与えられる。必要な資金の5分の4を私掠船のスポンサーとなる貴族たちが出資し、残りを自分の船であるアンティグア号を売り払ったキッドと知り合いであるロバート・リビングストーン大佐が出資した。オルフォード伯爵やロムニー男爵、シュルーズバリー公爵、それにジョン・ソマーズ卿などの著名な貴族が出資している
(略)
【引用終了】

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■  1699 海賊キャプテン・キッド  ボストンで逮捕 → 1701/5/23 処刑

カリブの海賊の背後にエリート貴族
2011.06.02 Thu posted at: 18:24 JST
http://www.cnn.co.jp/showbiz/30002953.html
より
【引用開始】
(略)
しかし、キッドは本当に罪人だったのだろうか。今回の展示会で明らかになったのは、キッドがロンドンの富裕層の利益戦争に巻き込まれたあやつり人形に過ぎなかったという事実だ。

当時キッドは、伯爵や貴族、海軍本部などの主要政府機関に雇われ、怪しい事業にかかわっていた。政府機関は通常の合法的な私掠船契約を無視し、キッドの私掠船船長としての専門知識を利用して金もうけする特殊な契約を結んでいたのだ。

キッドを支援していたのは、実は東インド会社のライバルだった。キッドの活動が同社の利益に悪影響を及ぼすと感じた東インド会社は、キッドがアルメニアの商用船を攻撃した際、この行為が私掠船として合法ではないとして、キッドが逮捕されるように陰で糸を引いた。

その後キッドは裁判にかけられるが、裁判では彼の無罪を証明する書類がなぜか紛失し、自身で証拠を提出することも禁じられた。

今回の展示会は10月下旬まで開催されており、キッドの最後の手紙や略奪物の全リスト、17世紀の本物の海賊の旗などが展示されている。こうした展示物が、海賊の黄金時代の謎を解く鍵となるかもしれない。

【引用終了】

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海賊キャプテン・キッドの背景を探る – (4/10)
2011.06.02 Thu posted at: 18:24 JST Updated
http://www.cnn.co.jp/photo/4099-10000207.html

より
【転載】

 

頭がい骨と十字型の骨をかたどったこの海賊船の旗は、ロンドンのカリー家に何世代にも渡って受け継がれている。1700年代後半のものと思われ、火薬で焼けこげた跡が見られる

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海賊キャプテン・キッドの背景を探る – (5/10)
2011.06.02 Thu posted at: 18:24 JST Updated
http://www.cnn.co.jp/photo/4100-10000207.html

より
【転載】

東インド会社の船。しっかり武装していたため、海賊はより小規模なインドの船を襲うことが多かった

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■イギリスの旗の一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%97%97%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

より
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ファイル:Flag of England.svg
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Flag_of_England.svg

Flag of England.svg

イングランドの国旗・セント・ジョージ・クロスの名で知られる。 :c1300年
白地に赤いセント・ジョージ・クロス

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ファイル:British East India Company flag.svg
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:British_East_India_Company_flag.svg

British East India Company flag.svg

イギリス東インド会社の旗:1600年-1858年
カントン(Canton)にセント・ジョージ・十字と4つの白と5つの赤の縞模様。

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Kazumoto Iguchi’s blog
2011年 06月 03日
「カリブの海賊」もまたただの駒に過ぎなかった!:英米政治の古典的ストーリー!
http://quasimoto.exblog.jp/14889589/
より

【引用開始】
(略)
この旗の存在は、20世紀の現代でほとんど知られなくなり、今現在もあまり知られていないものなのである。それが見事にこの船にあった。これは歴史的価値のある絵なのである。

というのも、アメリカ合衆国は、歴史上は英米の戦争。アメリカが独立戦争

(左下の船の旗の種類と配置を見よ。上のキャプテンキッド【引用者注:?→「東インド会社」が正】のものとまったく同一である。)

を起こしてイギリスから独立したことになっているが、しかし実際は、そのやらせのきっかけとなった「ボストン茶会事件」はイギリスの「東インド会社」の工作だった。表向きは国同士の戦いだったが、実際にはアメリカ合衆国を影から支配するためにイギリス貴族が仕組んだものだったと、そして、アメリカ国旗は「東インド会社」の旗から英国の国旗の部分を星に入れ替えてできたのだと、かのバックミンスター・フラーは言っていたのである。これが今回のキッドの絵で実に良く分かるのである。

また、「頭がい骨と十字型の骨をかたどったこの海賊船の旗」は、まさにスカルアンドボーンズの象徴である。日本では、自由の象徴だと錯覚している馬鹿者が多いが、これこそ白人至上主義者の象徴である。オカルト主義者という意味である。今のアメリカのNWOネオコンの象徴である。

さらに面白いのは、やはりキャプテン・キッドの生涯である。大英帝国の家臣として英蘭vsスペインポルトガル、特にスペイン継承戦争として大帝国スペインに対して海賊行為(今でいう国際テロ)をして、スペインやポルトガルの船を襲ってはその財宝やら武器弾薬やらを盗んでイギリスの女王のところへ持って行ったわけである。そういう役割を担った多くのイギリス人海賊の1人がキャプテン・キッドだったわけである。だから、最初は英雄だった。

ところが、そのキッドの行動がイギリスの東インド会社の利益にならないと、今度はキッドに汚名を着せて犯罪者扱いしてとらえさせる。そして、絞首刑。(もちろん、東インド会社というのは人類史上初めて誕生した株式会社のことであり、その株主とは英国王室や貴族たちだったわけである。そしてその背後でユダヤ人の金庫番が出番を待っていた。それが後のロスチャイルドになるのだが)。

どこかで聞いたような話である。かのイラクのフセイン大統領。そしてムジャヒディンの英雄ビンラディンやタリバーン。全く同じストーリーである。最初は英雄、しかし用がなくなると犯罪者に仕立て、とらえて絞首刑か惨殺。

この英米社会の政治、英米アングロサクソン流の政治力学の原点がこのキャプテン・キッドの歴史に如実に出ているというわけである。そして今現在も進行中なのである。菅直人や日本の政治家も同じことである

【引用終了】

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■ 海賊船の旗印=ドクロのマーク(Skull and Bones、S&B)

スカル・アンド・ボーンズ

Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA

より

【引用開始】

スカル・アンド・ボーンズ(Skull and Bones、S&B、頭蓋骨と骨)はアメリカイェール大学にある秘密結社。「The Brotherhood of Death」の異名がある。秘密結社にも拘わらずなぜか会員名簿が公開されている。

スカル・アンド・ボーンズのエンブレム

概要

構成員同士が協力し合いアメリカで経済的・社会的に成功することを目的としている。入会と同時に、過去の恥ずかしい秘密を暴露させられ、その秘密を共有することによって結束を深めるという。トゥーレ協会CIAイルミナティ、に関係があるという説がある(英語版参照)。

2004年秋のアメリカ合衆国大統領選挙の2人の候補者である、ジョン・ケリージョージ・W・ブッシュが2人ともS&B出身だったのは有名。また、第43代アメリカ合衆国大統領のジョージ・W・ブッシュの父である第41代アメリカ合衆国大統領のジョージ・H・W・ブッシュや、祖父のプレスコット・ブッシュもS&Bのメンバーだった。

プレスコット・ブッシュはS&Bでハリマン家の息子ローランド・ハリマンと出会い、銀行家の道を歩み成功する。その後、二人はユニオン銀行の頭取と社長として、ヒトラーの資金援助者だったドイツの鉄鋼石炭王フリッツ・ティッセンと深い関係を築いていく。しかも、アメリカが第二次世界大戦に参戦した後もナチス・ドイツとの関係は続き、鉄鋼・石炭という軍需物資への投資で財をなした[1]

第一次世界大戦中、S&Bのメンバー6人が、アメリカ先住民族アパッチ族の指導者であるジェロニモの墓を暴いて遺骨を持ち去り、S&B本部に納めたと言われている。遺骨は、今も所在不明。なお、持ち去りメンバーとされる6人のうちの1人は、プレスコット・ブッシュであるとされている。ジェロニモの子孫より遺骨の返還を求め提訴されている。

S&Bがケネディ暗殺を企てた理由の一つは、「公開処刑」によって自らの力を誇示し、大衆の心にダメージを与え、無力感を植えつけることだったと言われており、実際、その後アメリカ国民は退廃へと突き進んでいったとの説[2]がある。

【引用終了】

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■ イギリスの旗の一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/イギリスの旗の一覧
より
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ファイル:Flag of the United Kingdom.svg
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Flag_of_the_United_Kingdom.svg

Flag of the United Kingdom.svg

イギリスの国旗・連合王国旗として使用されユニオン・ジャックの名で知られる。:1801年
イングランドの国旗とスコットランドの国旗を重ね合わせたものにセント・パトリック旗(アイルランドを象徴する旗)を加えた。

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ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Union_flag_1606_(Kings_Colors).svg

Union flag 1606 (Kings Colors).svg

グレートブリテン王国の旗(1707年から):1606年-1801年
1606年からのイングランドと1707年からのスコットランドで使用されたユニオン・ジャックの最初の型。イングランドとスコットランドの旗を重ねたもの。

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ファイル:Flag of the British East India Company (1707).svg
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Flag_of_the_British_East_India_Company_(1707).svg

Flag of the British East India Company (1707).svg

イギリス東インド会社の旗 :1707年-1858年
カントン(Canton)にユニオン・ジャックと6つの白と 7つの赤の縞模様。大連合旗に感銘を受け、やがて アメリカ合衆国の国旗へと発展した。

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■ アメリカ合衆国の国旗
http://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ合衆国の国旗

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ファイル:Grand Union Flag.svg
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Grand_Union_Flag.svg

グランドユニオン旗

1775年12月3日[2] – 1777年6月14日

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ファイル:US flag 13 stars – Betsy Ross.svg
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:US_flag_13_stars_–_Betsy_Ross.svg

13星旗

1777年6月14日 – 1795年5月1日

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■ 1577-1580  フランシス・ドレーク世界周航

JSA 社団法人日本船主協会のHP
海運雑学ゼミナール
英国海軍の基礎を築いた女王陛下の海賊船
http://www.jsanet.or.jp/seminar/text/seminar_253.html
より

【引用開始】
海賊船の旗印といえばドクロのマークが有名だが、自国の海軍旗を堂々と掲げて海賊行為を行った、いわば国家公認の海賊たちもいた。
その代表がフランシス・ドレーク。若くしてカリブの海賊として名をはせ、一時はお尋ね者となり身を隠していたが、1577年に突然エリザベス女王に謁見し、太平洋航海の許可を得る。
当時のイギリスとスペインは、表向きは友好を保っていたものの、宗教上の対立や領土拡大競争で水面下のつばぜり合いを続けていた。ドレークの最大の使命は、スペインのガレオン船の捕獲とスペイン植民地からの略奪で、スペインに経済的な打撃を与えるとともに、その威信に泥を塗ることだったのである。
1577年から1580年にかけての航海で数多くの戦果を収め、財宝を満載して帰国したドレークを女王はナイトの称号を用意して迎えた。ドレークの名声は欧州中に響き渡り、やがてその活躍にあこがれた後継者たちが現れる。
【引用終了】

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■ 1601  イギリス東インド会社

香辛料貿易
http://ja.wikipedia.org/wiki/香辛料貿易
より

【引用開始】

http://ja.wikipedia.org/wiki/香辛料貿易

より

【引用開始】

香辛料貿易(こうしんりょうぼうえき)は、香辛料、香、ハーブ、薬物及びアヘンなどを対象とした、古くから行われていた貿易(交易)のことである[1]。アジア圏は古代から香辛料貿易に関わり、古代ギリシャ・ローマとも、ローマ-インドルートと香の道(Incense Route)[2]を通して取引を行った[3]。

(略)

■ 歴史
特権会社のはじまり

チェンナイのセント・ジョージ要塞
1577年から1580年にかけてのフランシス・ドレークの世界周航を皮切りに、イギリス(イングランド王国)は、世界の海への進出を開始していた。しかし、当時のイギリスの航海の性格は、略奪、探検、冒険航海の色が強かった[2]。また、すでに、レヴァント会社という会社組織が結成されており、地中海やモスクワ経由で地中海東岸地域との貿易を専門とする商社がイギリスにおけるアジアとの貿易を独占していた。だが、1595年、オランダがジャワ島バンテンへ4隻から構成される船団を派遣し、この派遣の成功がヨーロッパ中に衝撃を与えた。
レヴァント会社はオランダが直接、アジアから東方の物産を大量に仕入れることができたことを目の当たりにしたことで、自らの独占が打破されることを危惧した。とはいえ、当時の航海技術、資本の蓄積では非常にリスクが高いものであった。そこで、レヴァント会社の人間が中心となり、航海ごとに資金を出資する形で新会社が設立されることとなった。さらに、エリザベス1世にアジアの貿易に関して、独占を許可する要請を行った。最初の航海は、1601年3月、4隻の船団が東南アジアへ派遣された。215人の出資者から68,373ポンドの資金を集めた[3]この航海は成功に終わった[3]。
その後、イギリス東インド会社は、オランダ東インド会社と東南アジアにおける貿易をめぐって、衝突を繰り返すこととなった。1602年にはジャワ島のバンテンに、1613年には、日本の平戸に商館を設置した。
1610年代から20年代にかけてのイギリス、オランダ、スペインの競合において、オランダは、1612年にスペインとの間で休戦協定を締結する事により、イギリスとの対立を鮮明にした[4]。しかし、オランダは、イギリスと対立するゆとりが無い事を悟り、1619年には、オランダ東インド会社に対して、イギリス東インド会社との融和を命じると同時に、1619年にはイギリス、オランダ両国の間で休戦協定が締結された[4]。

ヤン・ピーテルスゾーン・クーン。オランダ本国の意向を無視し、イギリス人を虐殺した。
とはいえ、1623年のアンボイナ事件をはさんだ時期において、平戸の商館を閉鎖するなど、アンボイナ事件以前より、イギリスは東アジア・東南アジアにおける活動を縮小しており、イギリス東インド会社の主な活動拠点は、インド亜大陸とイラン(サファヴィー朝)へ移っていった。今日では、アンボイナ事件における歴史的意義が見直されており、アンボイナ事件を契機に東南アジアにおける活動の撤退をしたとされる学説は否定されている[4]。あくまで、アンボイナ事件の意義とは、イギリス、オランダ両国において、封印されるべき記憶として刻印されたものの、事件の原因は当時のオランダ東インド会社総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(en:Jan Pieterszoon Coen)が個人的にイングランド人を毛嫌いにしており、本国政府の意向を無視したからに他ならない[4]。
1639年には、マドラスの領主に招聘される形で、要塞の建設が開始された。また、サファヴィー朝のシャー・アッバース1世にも使節を派遣し、その結果、当時、ポルトガルの活動拠点であったホルムズ島はサファヴィー朝の支配下に入った。ホルムズ島の対岸に港市機能を持たせたバンダレ・アッバースが建設された[5]。
当時のイギリス東インド会社の弱点は、航海ごとに、出資者を募りその売り上げ全てを出資者に返却する方式であった。この方式では継続的に商業活動を営むオランダ東インド会社との対抗が時代を経るごとに困難になってきた。1657年、オリヴァー・クロムウェルによって、会社組織の改組が実施された。この改組により、利潤のみを株主に分配する方式へ改めると同時に株主は会社経営に参画できる総会方式が採用されることとなった[6]。

ジョサイア・チャイルド
1670年代から1680年代にかけて、イギリス経済は空前の好況が訪れた。1671年から1681年にかけて支払われた配当金は、利回りで合計240%になり、1691年までの10年間での配当利回りは合計で450%となった。背景には、イギリス国内における「キャラコ熱」と呼ばれるほどの綿製品に対する需要があった。東インド会社の株式は投機の対象となり、インサイダー取引も横行する状況でもあった。その中で登場したのが、ジョサイア・チャイルド(en:Josiah Child)である。東インド会社総裁に就任したチャイルドはインサイダー取引を駆使し、巨万の富を得たとされる。チャイルドは王室とも癒着関係を持っていた。しかし、名誉革命により、ジェームズ2世が失脚すると、新しく国王となったウィリアム3世の命令により、1698年9月には、「東インドと貿易をする英国のカンパニー」が設立され、旧会社に付与されていた特権は、3年後に失効する形となった。その後、旧東インド会社の経営状況が改善され、1709年、新旧両会社は合同された[7]。
マドラス以後の商館建設

インド南東部・コロマンデル海岸にマドラスという拠点を獲得したイギリスであるが、それ以外の地域でも商館の建設に随時成功していった。1661年には、チャールズ2世とポルトガル王女キャサリン・オブ・ブラガンザが結婚した。この時の持参金の一部がボンベイである[8]。インド北西部での活動拠点をスーラトからボンベイへ移した際に、パールシーの商人や職人が移住した。ボンベイでゾロアスター教徒が活躍したことは、沈黙の塔(en:Towers of Silence)が建設されたことでも分かる。ボンベイの人口は、1671年には10万人に到達した。
ボンベイについで獲得した主要な拠点がカルカッタである。1702年に、ウィリアム砦の建設を開始していたが、1717年、イギリス東インド会社は、ムガル帝国第9代皇帝ファッルフシヤルから、ベンガル地方における輸出関税の免除という特権を獲得した。ベンガル地方は、当時のイギリスが求めていた産物の集散地であった。このことから、イギリス東インド会社の輸出の重心はカルカッタへと移動する。1750年には、イギリス東インド会社全体の75%がベンガル地方で占めるようになった[9]。

【引用終了】

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