“第一次囲い込み”の歴史に見る、311“復興構想”と待ち構えるTPPの罠について、「山崎淑子 支援の会」代表の川崎泰彦が論評します:

【代表Column】

略奪型自由主義経済を謳歌する多国籍企業(グローバリスト)による市場原理型資本主義の起源の一つは、中世イギリス、“囲い込み”をして土地の排他的使用権を独占したジェントリたちではないだろうか。

共同利用されていた土地から、共同体成員を追い出し、彼らの共存かつ自立的な生活を奪い、広大な土地を、自給的食糧の生産手段から、羊毛という大規模製品(原料)の生産手段へ、変質させてしまった。

「水産特区」「農地集約化」という、効率的生産と流通手段による利潤(そしてまた資本の蓄積)を求める資本主義の論理による、土地・漁場へのアクセス権の集中へのプロセスは、生産と流通手段を失ってゆく第一次産業の担い手の流民化へつながらないだろうか?

農業会社・漁業会社の社員・労働者へ、さらには不安定な不定期雇用へ、、、

さらに、TPPが日本に導入されるならば、アジアの安価な労働力によって、地域の産業の担い手が取って代わられ、相対的に高価な日本の労働者の雇用はなくなるだろう。

 

311 “復興構想”とTPPは、そのような日本を招来することを、深く考察する必要がある。

2011/7/4  【川崎泰彦 記】

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=== “第一次囲い込み”の歴史===

■ 囲い込み以前

ヒロさん日記

2006/11/8

http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1521437

より

【引用開始】

イギリスにおける農業は他の西欧諸国と同様、開放耕地制、混在地制、三圃制により成り立っていた。
三圃制においては冬期に飼料が不足するため、一年を通じて家畜を飼育することが不可能であった。そのため、いくつかの家族が集まり犂耕集団を形成し、耕地内を移動しながら共同で犂耕と播種を行ったが、全耕地での作業終了までに二ヶ月近い時間を要したため、作業時期による収穫の不公平を避けるべく、土地が入り組み、順番にそれぞれの土地を耕していける混在地制が採られていた。
収穫から次の播種までの期間、耕地は共同の放牧地とされたが、これは農村における共同権として農村における共同体成員に認められた権利であった。こうした土地の共同利用は慣習に従って規定され、違反者は厳しく罰せられることもあった。共同利用される土地はお互いの持つ耕地の他に、村落周辺の荒蕪地も存在した。この荒蕪地において、共同体成員は薪や芝、泥炭などの燃料を無料で手に入れる事が可能であった。

【引用終了】

■ 第一次囲い込み

世界史講義録

第62回  絶対主義

http://www.geocities.jp/timeway/kougi-62.html

より

【引用開始】

(15世紀末頃から、)イギリスの農村ではジェントリによる「第一次囲い込み(エンクロージャー)」が盛んになる。囲い込みとは何か。ジェントリたちが、自分の土地を耕している小作人を追い払って広大な農地を柵で囲って、文字通り囲い込むのです。小作人を追い払って、そのあとどうするのかというと、広大な農地に牧草を育てて、大量に羊を飼う。そして羊毛をとる。とった羊毛は、これをネーデルラントに輸出するのです。
ネーデルラントは毛織物工業で発展していたと、前回も話しましたが、その原料はイギリスが輸出していたわけです。だから、ネーデルラントの発展は、即イギリスの羊毛輸出量の増加、つまりイギリスの発展につながるのです。

【引用終了】

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■ 切り離された労働者

囲い込み:Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%B2%E3%81%84%E8%BE%BC%E3%81%BF

より

【引用開始】

また共同利用される土地はお互いの持つ耕地の他に、村落周辺の荒蕪地も存在した。この荒蕪地において、共同体成員は薪や芝、泥炭などの燃料を無料で手に入れる事が可能であった。荒蕪地には小屋が建てられ、自分の耕地を持たない零細な「小屋住農」が住むことを認められていた。彼らは居住するのみならず、荒蕪地に自家用の農地を作る事も許されていた。これは小屋住農を共同体全体で養うことで、播種と収穫時期に不足する労働力を補うことを目的としていた。

こういった共有地に依存した零細な農業従事者は、共有地が廃されると自立して生活して行くことが不可能となり、比較的早い時期より土地と切り離された労働者となっていった。

【引用終了】

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■ “囲い込み“に対する反乱

1549年「ケットの乱」

Kett’s Rebellion
http://en.wikipedia.org/wiki/Kett%27s_Rebellion

より

【部分 翻訳開始】

ウィンダムでの最初の反乱
ウィンダムの町は、1549年7月6日の週末に、不法に聖トマスベケットの人生を祝いました。ここで、町民の怒りが暴力へと変わったのでした。彼らはジョン・フラワドゥのヘザーセットの土地に進む前に、モーリー・セント・ボトルフの近くの村で、囲い(エンクロージャ)を破り始めました。フラワドゥは、賄賂を渡して、人々に、ロバート・ケット(B.1492)に属する囲い(エンクロージャ)を破らせたのです。しかし、賄賂が裏目にでて、ケット自身が暴徒と一緒になり、彼自身の垣根(塀・フェンス)を、彼らが破り倒すのを助け、それから彼らを率いて、フラワドゥの家へ行きその塀を破り倒した。

・・・・

王は、最初、反乱を鎮圧するためにノーサンプトンの第一侯爵ウィリアム・パーと1500人を送った。しかし、パーの乏しい戦さの経験のため、この攻撃は失敗した。その後、ウォーウィック伯ジョン・ダドリーが、ウェールズ、ドイツとスペインからの傭兵を含めて14,000人の強力な軍隊と一緒に送られた。以前、フランスで戦ったウォーウィックは、下院の元議員であり、その後、彼が強力なリーダーになっていた枢密院の議員だった。増し加わった脅威にもかかわらず、反乱軍はケットに終始、忠実であり、ウォーウィックの兵士たちと戦い続けた。彼らは圧倒的な軍隊に対してよく戦い、マウスホールド・ヒースの主要なデールの一つダジングデールの、都市の外での戦いを主導した。

【以上、翻訳©川崎泰彦】

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