= 「原発で手足ちぎられ酪農家」 =

= 「 原発さえなければと思います。残った酪農家は原発に負けないで

頑張ってください。仕事をする気力をなくしました」 =

■酪農家の自殺 原発が引き裂いた人生■

助けることができなかった、誠実な酪農家の命。

彼の遺した思いに、残された私たちはどう、応えることができるだろうか?

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 【山崎ジャーナル:冤罪被災者のきもち-11】

 原発は人殺しだ。

たかがエネルギー政策で、かけがえのない命と豊かな国土、農業・畜産業を含む全産業と国家の「安全イメージ」、子どもたちの将来の健康と国民の希望が、絶対絶命の危機に瀕している。

原発推進の誤った国策が、国土と海洋と大気と地球環境を汚し、国民は放射能汚染に怯え、天文学的な損害を物心ともに被っている。地球全体を汚染して、地球と国際社会に大迷惑をかけている。

 ….それでも「原発推進政策に変更なし」と宣言した懲りない海江田経済産業大臣は、地球環境と日本国土・領民を、さらなる原発事故や原発テロの甚大なリスクに強制的にさらしている。国家が壊滅的危機に瀕して「脱原発」と救済を求めているのに、やれ増税だ、TPPだ、核燃料サイクル推進だと、与謝野さんまで民意を無視して財界・米国利権の代理人と化して、「国民の生活第一」に背を向けた。

昨年の参院選直前に菅さんが突如、「消費税増税」をかかげて民意は離れ、民主党は選挙に負けた。増税派の中心的存在である与謝野さんを唐突に入閣させて、2008年8月の総選挙で約束した「増税しない」路線から逸脱、逆走。

国民の信任を、新たに問わないまま投票民を裏切り続け、暴走は止まらない。

そこに起きた、311原発震災。

対応を誤り続ける菅政権の中枢に、原子力村出身で、核燃料サイクル推進政策を中曽根元総理大臣と共に強引に牽引してきた“戦犯”与謝野さんが、主要閣僚の真ん中にデンと構え、菅さんのワキを固めているのである。これでは、55年体制以来の「自民党・一党独裁体制」時代と、変わらないではないか….。

最も「古い自民党時代」の政策・策定者が「三顧の礼」で迎えられた民主党、菅政権。原発震災対策が遅々として進まず、現地に混乱と絶望と死をもたらす“人災”の原因が、ここにある。

私は、東京1区の選挙民として、海江田さんと与謝野さんを応援してきた自分が、心底、恥ずかしい。今回の“人災”の元凶ともいえる2人の政治家を支援してきた有権者として、自分を深く、恥じています。

震災後の対応が後手後手にまわり、対処の誤りが続いているために、この国の豊富な産物、自慢のものつくり文化と産業、「安全で放射能フリー」の環境が最低条件である観光業が、さいたる犠牲になっている。

日本国の安全イメージが、こっぱみじんに破壊され、無残に滅んでしまうなんて、愚かしすぎて、情けなくって…涙が止まらないのは私だけではないはずだ。

ほかに、いくらでも代替エネルギーが可能だと、私と環境運動の仲間たちは40年も前から具体的に「脱原発と代替エネルギーへの転換」を提言し、強く警告してきたというのに、歴代の自民党政権と中曽根さん、与謝野さんと主要メディアは、まったく耳を貸してはくれなかった…。

それどころか、私たちは圧力と嫌がらせに長年さらされ続け、仕事を干されて「原発推進という国策の犠牲」となった。原発に反対した善良な市民や学者が社会的に抹殺され、多くが第一線から消えていくさまを、悲しみと共に目撃してきた。

マスコミも世論も、見て見ぬふり…原発推進に反対する市民運動家やジャーナリストは村八分となり、居場所を失っていった。皮肉にも、今回の原発震災で初めて原発と核燃料サイクルの仕組みを知り、「安全神話」の詭弁を知ったという記者や国民は多い。危険性の真実が巧妙に、徹底的に覆い隠されてきたためである。

私もジャーナリストとして、1999年に起きたJCO臨界事故を、当時、詳しく分析した調査報道記事をニューヨークのOCSに発表した。この5ページの論評について、ニューヨークに駐在する企業コミュニティーから有形・無形の圧力を受けた。無言の恫喝による“委縮効果”はバツグンだった。

フリーランサーだった私は圧力におびえ、環境や社会問題などの執筆をやめて、生活のために経済ライターに方向転換を余儀なくされた。IRやPR、マーケティング・ライターへ転身した結果、皮肉にも私の収入はいっきに10倍に跳ね上がる結果となって、驚いたものだ。

「干して、ひもじい思いを味わわせてから、アメを与える戦略」=まさに、アメとムチで私は無力化され、社会派から金融ライターに転身したことで収入は安定し、IRと危機管理広報に特化することによって私の高収入は保障された。

財界の戦略は、実に巧みで、圧力による心理的・経済的効果は、研究し尽くされてきた。彼らはそれを、市民運動や原発受け入れ地域に、忠実に適用してきたまでだ。

例えば、アメリカで有名なケースは、ベトナム戦争末期の反戦運動におけるピンクパンサーの役割と、その後の衰退ものがたり。この時期にオノ・ヨーコとジョン・レノンがロンドンからニューヨークへ転居し、永住権を申請したが却下されている。理由は、ピンクパンサーなど暴力的な反戦団体の中心的存在との交流があげられる。

1970年代前半から中ごろにかけて、ジョンとヨーコの二人は、過激な反戦運動に利用された。これが“反社会的”活動を見なされて、永住権申請は却下されたと言われている。同時代の米国東海岸に暮らしていた私は、10代なりの教訓を得て、「だから暴力は、いけないんだ。決して正当化されるべきものではない」と考えたことを、覚えている。

そして私は、徹底した「非暴力、平和主義」の思想と、「交渉と話し合いによる解決」の哲学を固めていった。「ピンクパンサーのような暴力的活動には、巻き込まれたくない」という、この嫌悪感がアメリカ国民の深層心理に沁み込んで人心が離れたとき、ピンクパンサーは支持を失い、活動は急速に沈静化。社会から見放されていったのである。

この過激さを、裏で資金的に支援してきたのが、他でもない、フォード・ファンデーションだ。このフォード財団は、かつて緒方貞子さんが勤務し、オバマ大統領の母親が活動資金を受給していたことで、日本人にも馴染みが深い。

同財団による「ピンクパンサー撲滅作戦」は、社会全体に対して「若者の反戦運動は、過激で暴力的で耐えがたい存在」という嫌悪感と反社会的イメージを、植えつけること。これは見事に成功した。米国社会における、学生運動や反戦市民運動の地位は確実に低下し、ヒッピーやフラワー・チルドレンが提唱する自由でナチュラルな生き方は、アウトロー的な落伍者がするものという雰囲気が定着。

暴力と平和運動のイメージが連動されるようになった米国で、反戦運動は急速に衰えていった。

学生は髪を切り、小ざっぱりした服装とライフスタイルに転身して、やがて富と成功を追及する“ヤッピー”族へと、脱皮していったのだ。サイゴン陥落後の社会の変容ぶりを、私は留学生としてイーグルスのホテル・カリフォルニアを聴きながら、フィラデルフィア郊外の森の生活から見つめていた。

これをきっかけに、私は「心理戦」やプロパガンダに興味を抱くようになり、西海岸にあるダヴィストック研究所に関心を持った。この「心理戦略について学びたい」という漠然とした将来の方向性を相談したとき、ライシャワー夫妻は顔を見合わせ、「まあ!」といって苦笑して、とまどいぎみに私をなだめた。

「まあ、オノ・ヨーコさんみたい。あの方も、良いうちのお嬢様なのに、ラディカルな芸術や平和運動に傾倒されて….。あなたが彼女に憧れる気持ちはわかるわ。でもね、まだ17歳でしょう。多彩な趣味と教養を培うために、音楽と学生生活を、ゆったりと楽しんでいただきたいの。今はどうか、そんなに思いつめないで…」と。

そこで私は、思いつめることをやめ、短絡的な思いこみの危険性を警告されたことを、心からライシャワー夫人の春子さんに感謝した。その後、ほどなくして、ハーヴァード大学の客員教授として外務省から赴任された外交官が、家族とともに、ライシャワー家の隣町に転入されてきた知らせを聞いた。その家族は、のちにニューヨークで隣人となる小和田優美子さんと、皇太子妃雅子さま。小和田家の話を私が最初に聞いたのは、ライシャワー家のキッチンだった。

   ***      ***      ***      ***   

帰国後、同時通訳となった学生時代、働き稼ぐ喜びを知った私は、同時に大人の社会の複雑さや性差別の不条理を経験した。原発事故や大地震発生のリスクを痛感したことが直接の動機となって、日本を離れ、ニューヨークへ舞い戻ることになった。

こうして、地震がほとんどない安定した堅固な岩盤に築かれた都市、ニューヨークへ24歳で移住。ジャーナリスト・ビザを永住権に切り替え、日本の実家で療養中だった夫を呼び寄せ、必死の形相で3つの職業を掛け持ちするキャリアウーマンに生まれ変わった。扶養家族を持って、事実上、世帯主となった私は9時ー5時の昼間、ロックフェラーセンター21階に事務所を構える国際観光振興会(現在、機構)にフルタイム勤務するかたわら、アフター5の夕方はメリルリンチ証券や米国債券のブローカーであるペインウェバーの社内で実用・ビジネス日本語講座を開設。トップ幹部に日本語を教えた。

3つ目の職業は、日本へ旅立つ富裕層の個人旅行のプランニングとコーディネイト。滞在先の高級旅館を選び、国際電話やFAXを駆使してレストラン予約やアポ取り、お買いものアレンジなどのアルバイトを、深夜の自宅で営んでいた。たいした収入にはならなかったが、感謝され、喜んでもらって、これがニューヨークにおける信頼と人脈づくりに、やがて大きく貢献することになって、自分でも驚いたものだ。

チェルノブイリ原発事故が起こる2年前の、1984年にかなった“米国永住”プロジェクトだった。

私が離れた日本は、原発廃止政策へ転換した米国とは逆に、スリーマイル島やチェルノブイリの破滅的事故の惨劇から教訓を学ばず、“核燃料サイクル”を大躍進させて、原子力利権を死守する“原子力村”を80年代から2000年代にかけて確立。強大な利権と既得権益の構造を、強固に築いていった。

原発推進・依存の国策にまい進するため、ウソの安全神話を国民に吹聴して、放射能漏れなどの深刻事故が起きても徹底して隠蔽。虚偽の歴史と繁栄の上に、いつか崩れ去る(浜岡砂丘の上の)砂上の楼閣を完成→日本各地で増築を重ねていったのである。

他方、2005年春の国会では、“原発震災”発生の警告を受けていたにもかかわらず、当時の自民党政権はこれを無視。2009年に政権交代を果たした民主党政権もまた、原発推進政策を加速させた。

 

そして今年311に警告通り起きた、原発震災。

案の定、止められない臨界と大量の放射能漏えい、放射性物質による人体や土壌、大気や海洋汚染の収束が見えない実態と、国内外から寄せられる怒りの避難、悲観論…。

ドイツとスイスに続き、イタリアも国民投票で「脱原発!」「原発廃炉」政策を決定した。

世論を反映した、当然のエネルギー政策転換である。

ところが、事故当事者である日本国の海江田万里・経済産業大臣は、2011年6月15日現在も、財界・経済団体に「原発推進政策に変化なし」と、民意を無視して確約した。

 こうして、

かけがえのない人間と家畜の命と、農業・漁業、従事者の命と暮らしと歴史(生きてきた記録)、健康な土壌や美味しい空気、海の安全と豊饒な海産物、美しき“まてい”の村「飯舘村」自慢の自然と酪農、子どもたちの将来を、日本政府の国策が奪っていった。

今日、この瞬間も日本政府の悪政が、国民の命と暮らしと誇りと尊厳、将来を奪い続けている現実が、海江田さんには、与謝野さんには、菅さんには見えないのか?あなた方の目は、なぜこうも濁り、淀み、曇っているのだろうか?

私は東京1区の有権者として、わざわざ日本へ帰国までして、お2人に投票してきた。

与謝野さんとも、海江田さんとも、面識がある。

私が海江田さんへ1票を投じた選挙では、海江田さんが当選して、固い握手を交わし、

与謝野さんへ投じた選挙では、与謝野さんと勝利の喜びを分かち合った。

典型的な無党派層として、私はお2人の政策の共通性・類似性に悩み、明確な差別化に苦労しつつも、お2人の政策を天秤にかけては、苦悩のうちに投票の義務を果たしてきた。

選挙運動応援のために、ときには事務所へ駆けつけ、ある時は麻布十番での街頭演説会に集った私だが、次回の選挙はどうしたものかと、すっかり途方に暮れている。

お二方とも、「増税。TPP。原発」推進派だから、それが問題なのです。

私は、増税にもTPP批准にも、原発推進政策にも、強く反対しています。そのため東京1区では、投票すべき政策を掲げる候補が、社民党と共産党にしか残ってはいないのではないかと、憂鬱な気持ちでいます。

私は無党派なので、2013年の参院選までに、じっくり投票行動を吟味することにいたします。

 

さて、話を戻して、被災者の絶望と自殺問題。

私は、どんなに苦しくても自殺しない、させない、ドン底でもあきらめずに「生き抜く」勇気と知恵と力強さと精神力を、私のように全てを奪い尽くされた災害被災経験者や冤罪被害者に培ってほしくて、報道サイトを立ち上げました。

公式サイトの名称を、「山崎ジャーナル」から「山崎淑子の生き抜くジャーナル」へ変更したのも、全ての心折れた嘆き悲しむ魂を鼓舞し、生きる希望を分かち合いたかったからです。

なのに、救えない命がある…。

被災者も、風評被害者も、避難民も、絶望して命を絶ってゆく。

なのに無力な私には、書いて報道し、被災者に届かない励ましのメッセージをこうして発信しては、挫折し、泣くことしかできないのか!?

無力感と虚無感、脱力感に打ちのめされます。 

放射能汚染による実害と風評被害は、心も、体も、命も、夢と希望も、将来設計もろとも、すべてを奪ってしまう。

生活の糧である乳牛を手放し、将来の希望がまったく見えないのに、積み重なる借金の底なし地獄。

返済メドが立たないお手上げ状態に、追い詰められ、誇りと尊厳をもぎ取られて、心が折れてしまう被災者の苦悩。

ここに、自然災害と原発震災によって生業と家族、将来と希望を奪われた、一人の酪農家の死があります。

辞世の句があります。

自然が美しく、農産物・海産物ともに豊かで風光明美な福島県の、相馬市で親子2代、31頭の乳牛を育て、健康な乳を毎日絞って出荷して、フィリピンから花嫁を迎えて2児に恵まれ、営々と酪農を築いてこられた1人の日本人被災者の、生きた証しと遺言に、心と耳を傾けましょう。

「グサリと心臓を突き刺す、辞世の句」を遺されたあなたに、できたら亡くなる前にお会いして、愚痴や悩みにいつまでも、楽になるまでじっくりと、真剣に耳を傾けたかったと悔いる、一市民からお別れのご挨拶を申し上げます。

自殺の前に、あなたを見いだせなかった自分を責め、悔いています。会って、話して、肩を抱き合い、共に涙し、気分がラクになるまで時間をかけて、励ましあいたかったです。私が、かろうじて生き延びた、652日間の絶望と暴力に満ちた“生き地獄”の暗黒を、あなたに聞いてほしかった….。

あなたの慟哭の叫びが聴こえなくて、絶望に気づかなくって、手を差し伸べられない無力な私で、本当に本当に、ごめんなさい…。

心からのご冥福を、お祈り申し上げます。

2011/06/16 15:56 【山崎淑子 記】

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■東京新聞より、引用開始:

☞ http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2011061602000069.html?ref=rank

2011年6月16日

酪農家の自殺 原発が引き裂いた人生

 福島県相馬市で酪農家の男性が非業の最期を遂げた。暴走して放射能を吐き出す東京電力福島第一原発を前に、無為無策でいる政府への抗議だったのかもしれない。彼の死は重い問いを投げ掛ける。

 「原発さえなければと思います。残った酪農家は原発に負けないで頑張ってください。仕事をする気力をなくしました」

 先週、酪農業の五十代の男性が首をつって亡くなった。現場の堆肥舎の壁のベニヤ板にはそう書き残されていた。

 「ごめんなさい」と家族にわびる言葉もあった。突然、絶望のどん底に突き落とされ、途方に暮れていたのだろう。

 知人によれば、男性は親の代から酪農を営み、約三十頭の乳牛を世話していた。ところが、原乳の放射能汚染が判明して三月に出荷を止められ、男性は乳を搾っては捨てていた。五月までに全頭を売り払ってしまった。

 「子どもに跡を継がせたいと夢見ていたのに、一瞬にしてぶち壊された。無念だったろう」。知人は心中を推し量った。やり場のない気持ちへの同情を禁じ得ない。

 おびただしい人生を台無しにした東日本大震災。それでも自然の仕業だと思えればこそ、あきらめもつくし、未来への希望も湧いてくる。その余地はあるだろう。

 原発事故は人災だ。しかも、いまだに収束のめどが立たないとは怒りを覚える。それに原子炉が落ち着いたところで牧場も、田畑も、海原も、河川も広い範囲にわたって放射能汚染の恐怖が残る。

 住み慣れた故郷で生業(なりわい)を再開できるのか。家族が共に暮らせるのか。先行きが一向に見通せないつらさは想像を超えている。

 この男性だけではない。須賀川市では野菜の出荷を制限された農民が、飯舘村では避難した家族との別離を強いられた高齢者が、これまでに自ら命を絶った。

 政府は原発事故に伴う損害賠償の範囲を検討しているが、自殺者や遺族をどう扱うのかはっきりしない。因果関係が認められれば賠償するのは当然だ。遺族の生活支援の仕組みも整えたい。

 「原発で手足ちぎられ酪農家」

 男性は牛舎の黒板にそんな辞世の句も残していた。原発事故への怨嗟(えんさ)の念が伝わってくる。

 だが、今や政府と国会の惨状を眺めると「原発」を「政治」に置き換えられる。大勢が生死の境をさまよっている。与野党とも権力争いはいいかげんにして被災者の救済に力を振り向けるべきだ。

 【引用終了】

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