訃報:ソニー相談役・バリトン歌手・指揮者の大賀典雄さんがお亡くなりになりました。

 

大賀典雄さんの思い出:

 

両親が同郷、同世代のご縁から、私は、幼いころからずっと大賀さんにあこがれ、お手本としてクラシック音楽を習い、オペラ歌手としてニューヨーク・プロデビューを果たすことができました。励まし続けていただいたおかげで、ジャーナリスト・デザイナー・会社経営者として、“兼業”の道を選択。音楽を愉しみ、人生を謳歌する、文化・芸術的に豊かな半生を送ることができたのです。

大賀さんにはニューヨークで2度、軽井沢の大賀ホールで1度お会いしただけでしたが、当時、出版社やPR広報会社を経営する私に大賀さんは、、「兼業で、いいんだよ」、「経営分野でも、よく頑張っていらっしゃって、立派じゃないか」、「音楽は、アマチュアだからこそ、存分に楽しめる面がある。とくに、オペラ歌手はね」と、力強く温かい、肯定的な、数々の励ましのお言葉をくださいました。

経営者の顔と、音楽家のメンタリティーの狭間で葛藤していた30代の私は、大賀さんにこのような優しいお声をかけていただいてはじめて、兼業する自分のライフスタイルを肯定することができました。

「うん、今はこれで、いいんだ。芸術と実業の兼業でも、かまわないんだ!」と、目から鱗。

自分に与えられた職業的立場を受け入れ、生き方に自信を持つことができたのです。

晩年はお言葉が少し、ご不自由になられたこと、私の人生の方向を決定するご助言を与えてくださったことの2点において、大賀さんとライシャワー教授は等しく、偉大な師匠であられました。

人生の羅針盤として、お二方から頂戴した人生訓に忠実に従い、自分に正直に、日々を誠実に生きて、前を見て懸命に働き、夢を1つづつ実現してこれたのは、歌と、お二人のお導きがあったからこそと、深く感謝しております。

もう1つ、私に最後に残された、一大プロジェクトがあります。

名付けて、「プロジェクト 隣人愛」。そうです、隣人愛の実践です。

これは日本の威信と、わたくし山崎淑子個人の尊厳と、日本人の誇りを取り戻すための、生涯をかけたプロジェクトです。

間違ったアメリカ連邦政府によって長期間、誤って米国監獄に投獄され、過酷な652日の不当拘留と、出獄後の残酷で冷淡な失意の数年間を、かろうじて生き延びて参りました。

冤罪被害者におとしめられて、家族と愛犬、名誉と尊厳、全財産と仕事の全てを失いましたが、このまま誤解されたままでは、人生に幕を下ろすわけにはいかないのです。

これから、日本人の名誉と威信をかけた「雪冤キャンペーン」を、私らしく明るく友好的に展開してゆくつもりでいます。

険しい道のりとなりましょうが、どうか大賀さん、見守っていてください。

応援してくださいね。

大賀さんが残された音楽的偉業と、経営者として生前、築かれた輝かしい実績を心に刻み、私もまた、残された時を懸命に生きてみます。

ー 歌に生き、愛に生き、オペラに生きる、後輩として。

大賀さん、ありがとうございました!

ご冥福を、お祈り申し上げます。

合掌。

2011/4/25 8:33 【山崎淑子】

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【訃報記事:引用開始】

 弊社相談役 大賀 典雄 (おおが のりお)は、2011年4月23日午前9時14分、多臓器不全のため、逝去いたしました。享年81歳。
2000年6月にソニー会長を退いた。国際的演奏会で指揮し、99年に東京フィルハーモニー交響楽団の会長・理事長、04年から東京文化会館館長も務めていた。 (2011年4月23日23時32分  読売新聞)
静岡県沼津市出身。東京芸大音楽学部卒業後、東京通信工業(現ソニー)と嘱託契約を結び、ベルリン国立芸術大学音楽学部卒業から2年後の1959年にソニーに入社した。 64年に34歳で取締役、82年に52歳でソニー社長に就任。95年に会長、00年に取締役会議長、03年に名誉会長に就いた。06年に相談役に退いた。米CBSレコード、コロンビア・ピクチャーズを買収するなどハード・ソフトを「車の両輪」とする経営を進めたほか、94年発売の「プレイステーション」で家庭用ゲーム機市場への参入も決断した。

 99年から東京フィルハーモニー交響楽団会長・理事長、04年からは東京文化会館館長を務めた。LPレコードに代わるメディアとして、CDの録音可能時間をベートーベンの交響曲第9番が収まる約75分にするなど、規格づくりを主導した。世界的な指揮者のカラヤンとも親交が深く、その最期をみとったことで知られる。

☞ http://www.asahi.com/obituaries/update/0423/TKY201104230467.html

大賀 典雄(おおが のりお、1930年1月29日2011年4月23日)は、日本実業家指揮者、声楽家。

勲等は勲一等。ソニー株式会社相談役、財団法人東京フィルハーモニー交響楽団会長・理事長、東京文化会館館長。

CBS・ソニーレコード株式会社社長(初代)、ソニー商事株式会社社長、東京商工会議所副会頭、ソニー株式会社社長・最高経営責任者(初代)、社団法人経済団体連合会副会長などを歴任した。

妻はピアニストの松原緑

 
 
生い立ち [編集]1930年、静岡県沼津市の材木商を営む家に生まれる。1949年旧制静岡県立沼津中学校を卒業後、東京藝術大学音楽学部声楽科に進学。同大学在学中に東京通信工業(のちのソニー)のテープレコーダーの音質にクレームをつけたのがきっかけで同社嘱託となる。

東京芸術大学の音楽学部を卒業後、同大学の専攻科を修了し、ドイツに留学した。ミュンヘン国立高等音楽大学にて学んだのちベルリン国立芸術大学に移り、同大学の音楽学部を卒業した。ベルリンから帰国後はバリトン歌手として活動。

ソニーに入社:

1959年9月に盛田昭夫井深大に誘われソニーに入社する。入社1年目にして、第二製造部の部長に抜擢された。また、入社してしばらくの間はバリトン歌手としても活動していた。

広告部長とデザイン室長を兼務し、現在のソニーブランドの礎を築いた。『SONY』ロゴのデザインを手がけたり、トランジスタラジオ・テープレコーダーなどの製品にインダストリアルデザインをいち早く取り入れる。その思想は、現在も「ソニーデザイン」として受け継がれている。

 

音楽活動 :

1973年には、ソプラノの伊藤京子、山田一雄指揮東京都交響楽団との共演でフォーレレクイエムのレコードが当時のCBSソニーから発売された。

指揮者としては、1990年に60歳の記念として東京フィルを指揮したのをきっかけに世界中の名門オーケストラと共演した。中でもベルリンの壁跡地のポツダム広場再開発地区に建設したソニー・センターの落成式典でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してベートーベン交響曲第9番を演奏したのは有名。

療養先であった長野県軽井沢町に音楽ホールがないことから、ホールの建築資金にすることを条件に退職慰労金およそ16億円から手取額すべてを同町に寄付した。この寄付を資金として建築された音楽ホールが軽井沢大賀ホールである。

長年の音楽活動の中から、オーケストラの音色を決めるオーボエの重要性に着目し、Sony Music Foundationの主催で1986年に東京国際オーボエコンクールを、親交のある鈴木清三(新日本フィル)及びハンスイェルク・シェレンベルガー(ベルリン・フィル)の二人の奏者と共に立ち上げた。現在では会場を軽井沢大賀ホールに移し、軽井沢国際オーボエコンクールとして3年毎に行なわれている。

 

【引用終了】

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