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◆Anti-Rothschild Alliance 資料室

『The Money Masters』翻訳テキストより、

http://www.anti-rothschild.net/material/animation_06_03.html

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【引用開始】

政府の支出力と消費者の購買力を満足させる為に必要な通貨と信用の創出、発行及び流通は政府が行うべき事柄である。

通貨の創出と発行に係る特典は政府に属する最高の特権であるのみならず、政府が創造的活動を行う最大の機会でもある。

これらの諸原則を採用する事で納税者達は莫大な金額の利子を支払わずに済むようになる。通貨は人間性の主人たるを止め、それに仕えるものとなるだろう。」

エイブラハム・リンカーン

 

1881年、ジェームズ・ガーフィールド大統領選出。

就任後、彼は両替商達を公然と非難しました。

誰であろうと貨幣の量を制御する者は全ての産業と商業の絶対的な主となる

そして最上部にいる一握りの有力者達がシステム全体を何らかの方法で極めて容易にコントロールしているのを知るや、インフレと不況の時期が何に由来するのか、自ずと明白になる。」

ジェームズ・ガーフィールド

数週間後の1881年7月2日にガーフィールド大統領は暗殺された。

【引用終了】

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ガーフィールド大統領暗殺事件(James A. Garfield assassination)は、1881年7月2日に、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.で起こった。ガーフィールドは、第20代大統領としての就任から4ヶ月足らずのこの日午前9時半にチャールズ・J・ギトウに銃で撃たれ、11週間後の9月19日に死んだ。

Wikipedia 『ガーフィールド大統領暗殺事件』より

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マッキンリー大統領暗殺事件(William McKinley assassination)は、ニューヨーク州バッファローのテンプル・オブ・ミュージックで、1901年9月6日に発生した事件。

ウィリアム・マッキンリー大統領はバッファローで開催されていたパン・アメリカン博覧会に出席しており、無政府主義者のレオン・チョルゴッシュに2度銃撃された。マッキンリーは当初傷から回復しているように見えたが、狙撃から6日後に容態が急変し、9月14日に死亡した。

・・・略・・・

13日朝の速報では、「大統領の容態は重篤であり、深刻な事態も考えられる」とした。この日は13日の金曜日で、マッキンリーは急速に衰弱を始めた。

・・・略・・・

1865年偽札防止のために設立されていたアメリカ合衆国シークレットサービスは、1901年時点でアメリカ合衆国大統領を護衛するという公式な任務は無かった。しかし、シークレットサービスは既に1894年以来、マッキンリーの前任者グロバー・クリーブランドの時から非公式に時に応じた護衛を行っていた[7]

Wikipedia 『マッキンリー大統領暗殺事件』より

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1963年6月4日にケネディ大統領の大統領令11110 (Executive Order 11110) によって政府紙幣が復活するが、その約半年後の11月22日にケネディ大統領は暗殺された。

Wikipedia 『政府紙幣』より

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雑学.ケネディと偶然の一致

ケネディ暗殺の真相

セントラルリサーチセンター

http://www.crc-japan.com/research/k-a/index.html

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【引用開始】

ケネディといえばアブラハム・リンカーンとの偶然の一致 もよく注目されている。二人とも金曜日に、 妻の前で暗殺されており、 リンカーンは1860年、ケネディはその100年後の 1960年に大統領として選ばれているが、 議員に選ばれたのも1847年と1947年で、これも、 ちょうど100年後にあたる。 また、二人の暗殺後にその後を引き継いだ大統領は 二人ともジョンソンという名前で、 この二人は1808年と1908年生まれ。 つまり、ちょうど100年の差がある。 また、リンカーンを暗殺したブースは1839年生まれ、 ケネディを暗殺したとされているオズワルドは 1939年生まれで、これも100年の差がある。 また、この二人の暗殺者は二人とも裁判にかけられる 前に、別の人間に殺されている。 また、リンカーンの秘書はケネディ、 ケネディの秘書はリンカーン…、 これは単なる偶然なのだろうか…

【引用終了】

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リンカーン大統領は、南北戦争の戦費調達のため

1862年に法貨条例 (Legal Tender Act of 1862)を制定。

デマンド・ノート (Demand Note) を発行。

1865年、これを合衆国の永続的な通貨発行システムとする意向を発表。

その一月後1865 年 4 月 14 日金曜日(聖金曜日)午後10時頃、劇場で銃撃され、

翌朝、1865年4月15日土曜日午前7時22分に逝去した。

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1865年フォード劇場でジョン・ウィルクス・ブースに銃撃されたリンカーン大統領は、議会への声明で次のように述べていた。「わたしには2つの強大な敵がいる。前方の南軍と後方の金融組織である。後ろのほうが、手強い敵だ。」

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1934年、カナダの弁護士ジェラルド・G・マクギアは、公的な記録から抹消された証拠を手に入れカナダ議会下院で、ブースが国際銀行家に雇われていたと述べリンカーン銃撃が国際的銀行組織の謀略であった」とする申し立てを行った。

1934年5月2日付「バンクーバー・サン」紙の記事でマクギアは、

南北戦争中、彼の緑背紙幣政策(グリーンバック=政府発行紙幣)と戦い続けた国際銀行組織は、アメリカに中央銀行を再び設立し、自分たちがコントロールしている金を基本とした金本位制を確立して、彼らが世界の通貨と信用取引をくまなく支配する権利を握る

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1937年、ブースの孫娘イゾラ・フォレスターは著書で、ブースが、ヨーロッパの強大な勢力によってこの暗殺に駆り出されたとし、また、実はヨーロッパに逃れ39歳でカレー市で死去したと明かした。

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◆1934年【に判明した】リンカーン大統領の暗殺【の真実】
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/132.html
投稿者 アミ 日時 2011 年 1 月 10 日 15:46:14: ySEkXoM01ZpK6

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【引用開始】

1934年リンカーン大統領の暗殺は国際的銀行組織の謀略であった【と判明】
文献
ユダヤ・ロスチャイルド世界冷酷支配年表
アンドリュー・ヒッチコック著、太田龍 監訳、成甲書房
2008年9月20日発行 初版第1刷
p88、p89より
抜粋はじめ

1865年議会への声明で、エイブラハム・リンカーン大統領は次のように述べている。
「わたしには2つの強大な敵がいる。前方の南軍と後方の金融組織である。後ろのほうが、手強い敵だ。」

2度目の就任式から41日後、アポマトックスで南軍のリー将軍が北軍のグラント将軍に降伏してからわずか5日後の4月14日、リンカーン大統領はフォード劇場でジョン・ウィルクス・ブースに銃撃された。このときの負傷がもとで大統領は命を落とす。そしてその後、2ヶ月足らずでアメリカ南北戦争は終結する。
それから70年あまりの後の1937年、ブースの孫娘にあたるイゾラ・フォレスターは著書「狂気の行動( This One Mad Act )」で、ブースはヨーロッパの強大な勢力によってこの暗殺に駆り出されたのだと明かした。また、ブースは後にアメリカ当局によって殺されたと報告されているが、実はヨーロッパに逃れ、39歳でカレー市で死去したのだと記している。
 やはり70年近く後の1934年、リンカーン大統領の暗殺は国際的銀行組織の謀略であったとする申し立てが、カナダ議会の下院でなされた。これを暴いたのは、カナダの弁護士ジェラルド・G・マクギアである。
マクギアは、公的な記録から抹消された証拠を、ブースが死んだとされた後に、彼の裁判に立ち会った大統領護衛官から手に入れた。マクギアは、その証拠からブースが国際銀行家に雇われたいわば傭兵であったことがわかると述べた。彼の語った内容は、1934年5月2日付か「バンクーバー・サン」紙の記事で報じられた。そこには、こうある。
「奴隷解放論者であったエイブラハム・リンカーン合衆国大統領は、政府証券に関する彼の野望を恐れていた国際銀行機関の代表者からなるグループの謀略によって暗殺された。」
当時、何らかの理由でリンカーンの死を望む銀行家グループは一つしかなかった。
リンカーンによる合衆国の通貨計画に反発し、南北戦争中、彼の緑背紙幣政策(グリーンバック、政府発行紙幣のこと)と戦い続けた人々である。
ジェラルド・G・マクギアはまた、リンカーン暗殺の理由は、その国際銀行組織がアメリカに中央銀行を再び設立するためだけでなく、アメリカの通貨を自分たちがコントロールしている金を基本としたものにするためであったと述べている。つまり、アメリカに金本位制をとらせたかったのである。これは、合衆国の誠意と信用のみに基づくリンカーン大統領の緑背紙幣(グリーンバック)発行政策に真っ向から反対するものだった。
「バンクーバー・サン」紙の記事にはジェラルド・マクギアのこういった言葉も掲載されている。
彼らの関心は、金本位制を確立し、銀行家が金融機関として世界の通貨と信用取引をくまなく支配する権利を握ることにあった。リンカーンがいなくなればその計画を推進することができる。そして事実、彼らはアメリカでその計画を実行したのである。リンカーン暗殺から8年後には銀は廃貨となり、アメリカに金本位制が確立された。

抜粋終わり。

【引用終了】

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◆リンカーン大統領暗殺事件

Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/リンカーン大統領暗殺事件

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【引用開始】

南北戦争の最末期、1865年4月14日金曜日(聖金曜日)午後10時頃に起きた暗殺事件で、最初のアメリカ大統領暗殺であった。

エイブラハム・リンカーン大統領はフォード劇場で妻メアリー・トッド・リンカーンらと『われらのアメリカのいとこ(Our American Cousin)』の観劇中にジョン・ウィルクス・ブースに撃たれた。リンカーンは翌朝、1865年4月15日土曜日の午前7時22分にウィリアム・ピーターソン(William Petersen)宅で逝去した。

リンカーンを殺害したブースは、俳優でアメリカ連合国のシンパであった。ブースは同志であったルイス・パウエルLewis Powell)に国務省長官ウィリアム・スワード暗殺も命じていた。ブースの狙いはリンカーン、スワード、副大統領アンドリュー・ジョンソンを暗殺することでワシントンを混乱させ、合衆国政府(北部連邦)の転覆を起こすことにあった。ブースはリンカーン暗殺には成功したが、政府に揺さぶりをかけるという彼の思惑は外れた。スワードは負傷はしたが命をとりとめ、ジョンソン暗殺を命じられていたジョージ・アツェロットGeorge Atzerodt)は暗殺に踏み切る度胸がなく、何もしないままにワシントンを離れた。

【引用終了】

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◆政府紙幣

Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/政府紙幣

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【引用開始】

アメリカ [編集]

1/3ドル大陸紙幣(1776年2月17日)

 

アメリカではアメリカ独立戦争中の独立政府において、膨大な戦費をまかなう為に大陸紙幣 (Continental) と呼ばれる一種の政府紙幣を発行した。これはアメリカ合衆国建国後、地域紙幣として一時使用されつづけたが、不換紙幣であり濫発されたことから価値が暴落し信用のない通貨の代名詞になった[3]米英戦争 (1812年 – 1814年) 後の数年間と1830年にも国内鉄道基盤整備のための投資として不換紙幣が用いられたが、1837年恐慌 (Panic of 1837) で発行停止に追い込まれた。

また南北戦争時には戦費調達の必要性から1862年にリンカーン大統領によって、法貨条例 (Legal Tender Act of 1862)を制定。これに基づき、デマンド・ノート (Demand Note) を発行している。これはアメリカ合衆国財務省が初めて発行した紙幣であり、南北戦争後の1865年に至ってリンカーンはこれを合衆国の永続的な通貨発行システムとする意向を発表するが、その一月後に暗殺されてしまい結局政府紙幣の発行は中止となった。対する南部連合国も政府紙幣を発行したが、これも敗北したことで無価値となった。

J.F.ケネディ政権下で発行された政府紙幣 $5札(1963年)

その後、1963年6月4日にケネディ大統領の大統領令11110 (Executive Order 11110) によって政府紙幣が復活する[4]が、その約半年後の11月22日にケネディ大統領は暗殺された。1971年1月以降は、政府紙幣の新規発行は行われていない[5]。但し現在でも法律上、財務長官は、3億ドルを限度に「合衆国紙幣」(United States Note) を発行することができることとされている (合衆国法典第31編第5115条[6])。

【引用終了】

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◆Anti-Rothschild Alliance 資料室

『The Money Masters』翻訳テキストより、

南北戦争とリンカーン暗殺

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動画『The Money Masters』の翻訳テキスト page.3

 (1:04:21~1:31:30)

Anti-Rothschild Alliance 資料室

2009-01-03

お金を操る者達

国際的銀行家達はどの様にアメリカを掌握したのか

Page.3

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【引用開始】

1:15:32

17. エイブ・リンカーン

残念な事に、ジャクソンすらも全体の真相と問題の根本原因を把握していませんでした。ジャクソンは中央銀行を破滅させはしましたが、両替商達の最も邪悪な武器である小額準備金増幅運用方式が特許を得た多数の国立銀行で使用され続けていたのです。この方式が南北戦争の何年も前に経済の不安定性を増幅させていたのです。ともあれ、中央銀行が既になくなっていた事からアメリカは西方への拡大と共に繁栄して行きました。

1:16:07

この期間中に主だった両替商達は失った中央集権的権力を必死に取り戻そうとしましたが、叶いませんでした。そこで、彼らは遂に旧い中央銀行の常套手段、即ち、自分達への借金と依存を余儀なくさせる戦争への道に立ち戻ったのです。もし彼らが他の方法で自分達の中央銀行を取り戻せなければ、第一合衆国銀行の特許が得られなくなった後の1812年に彼らが行ったのと同様、アメリカを内戦に突入させて彼らの膝元に屈服させる魂胆だったのです。

1:16:39

エイブラハム・リンカーンが大統領に就任した1ヶ月後の1861年4月12日、サウスカロライナのここサムター要塞で南北戦争の最初の火蓋が切られました。 奴隷制度がこの戦争の要因の1つであった事は確かですが、主な原因であった訳ではありません。エイブラハム・リンカーンは南の経済が奴隷制度に依拠していた事を承知していて、それ故、戦争前にそれを取り除く意図はなかったのです。それについてリンカーンは1ヶ月前の1861年4月12日に行った就任演説の中で次の様に述べています

「私は合衆国に既に現存している奴隷制度を直接的もしくは間接的に妨げるような目的を何ら有しません。
私はその様にする合法的な権利があるとは思いませんし、そうするつもりもないのです。」

エイブラハム・リンカーン

1:17:30

ここサムター要塞に最初の火蓋が切られた後もリンカーンはその戦争が奴隷制度の問題に関するものではない事を主張し続けていました。

「私の最も重要な目的は合衆国を救う事であって、奴隷制度の保全でも破壊でもない。
もし、奴隷を何ら自由にする事なく合衆国を救い得るなら、私はその様にするだろう。」

エイブラハム・リンカーン

1:17:57

それでは、南北戦争とは一体何だったのでしょうか?そこには数多くの要因があります。北部の産業家達は南部の州がヨーロッパの安い品物を買うのを防ぐために保護関税を使用しましたが、対報復措置としてヨーロッパは南部からの綿輸入を停止したのです。南部の州は生活必需品の殆どが値上がりする一方で綿輸出による収入は激減すると言う二重の経済苦に陥っていました。南部の人々は怒り始めました。しかし、そこには他の要因も作用していたのです。両替商達は25年前に自分達が支配していた資金をアメリカが引き上げた事に未だ愕然としていました。以来、鰻上りを続けるアメリカの経済は国を豊かにしましたが、両替商達にとっては世界の他の国々に対する悪い例だったのです。中央銀行は今やこの豊かな新国家を分割して分裂させ、戦争によって征服する機会であると観たのです。これは当時の荒っぽい陰謀論の類に過ぎないでしょうか?

1:19:02

では、高い地位にあった信頼し得る当時の観察者がその出来事について何と言っているか見てみましょう。彼の名はオットー・フォン・ビスマルク、北ドイツ連邦の宰相で、この数年後にドイツの統一を果たした人物です

「合衆国が同等の力を持つ連邦体の州に分割されたのはヨーロッパの極めて有力な金融関係者達が南北戦争の遥か以前に既に決定していた事である。
これらの銀行家達は合衆国が、そのまま単一のブロック、1つの国家として経済的、財政的な独立を果たし、彼らの世界的な金融支配を困惑させる事になるのを恐れていたのだ。」

オットー・フォン・ビスマルク

1:19:42

ここサムター要塞で最初の火蓋が切られてから1ヶ月も経たないうちに中央銀行はワーテルローを戦ったナポレオンの甥に当たるナポレオン3世にメキシコを占拠して合衆国南部の国境沿いに軍隊を駐留させる為の資金、2億1千万フラン貸付けました。彼らの戦争を利用してモンロー主義を破り、メキシコを再び植民地支配しようとしたのです。

1:20:07

1823.
独立戦争の結末がどうであれ、両替商達に巨額の債務を抱えて弱体化したアメリカは中南米を再びヨーロッパによる支配と植民地化の為に解放する事になるのですが、これはアメリカのモンロー教書で1823年に禁止された正にそのものだったのです。

1:20:25

時を同じく、大英帝国は11,000人の軍隊をカナダに移動、アメリカ北部の国境沿いに威嚇配置しました。英国の艦隊は何時でも緊急介入の要請に応じ得るよう警戒態勢に入りました。

1:20:42

リンカーンは二重の苦境に立たされている事を認識していました。であればこそ彼は「合衆国」の命運に苦悩していたのです。そこには単なる北と南との違い等と言うものではなく、それよりもずっと多くの要因が働いていました。彼が単に南を打ち負かす事だけではなく常に「合衆国」を強調していたのもその為だったのです。1861年にリンカーンとその財務長官であったサルモン・ピー・チェイスは必要な戦費を調達する為にニューヨーク向かいました。合衆国を奉じる北軍の敗北を切望していた両替商達は24~36%の利率で貸付けると申し出て来ましたが、リンカーンは「ありがとう、だが、結構」と言い残してワシントンに帰ったのです。リンカーンは彼の旧友であるディック・テイラー大佐をシカゴに送り、戦費調達の問題解決に取り組ませました。そのテイラーとの会合の中でリンカーンが彼に何か解決策は見つかったか訊ねたところ彼は次の様に応えています

「何と言う事はない簡単な事でした、リンカーン。議会に100%法貨としての財務省紙幣を印刷する権限を与える法律さえ作らせれば、それで兵士達の給与を払えますし、そのまま踏み込んでやって行けば戦争もそれで勝てます。」

1:21:54

リンカーンが合衆国の国民はそれを果たして受け容れるだろうかと訊ねたのに対してテイラーは次の様に言いました

国民は誰でもあなたが100%の法定通貨であるとしたものを受け容れる以外に選択肢はありません。
それらは政府が無条件に是認するものである事からどの様な貨幣と比較しても何ら変わるところはないのです。
何故なら、議会は憲法第1条の規定によってその様にする権利を明白に与えられているからです。

ディック・テイラー大佐

1:22:17

こんな訳で、リンカーンは全くその通りにしたのでした。1862年から1863年にかけ彼は4億5千万ドルに相当する金額の新たな紙幣を印刷したのです。
それらの財務省紙幣を既に出回っている銀行紙幣と区別する為に彼はその裏側を緑色にインクで印刷しました。それらの財務省紙幣がグリーンバック(緑背)と呼ばれている所以です。この新たなお金でリンカーンは軍の給与を支払い、軍需物資を購入したのです。この戦争の過程で4億5千万ドル近くのグリーンバック紙幣が連邦政府に何らの利子も課せられる事なく印刷されたのです。

1:22:52

リンカーンは実際に糸を引いているのが誰で、アメリカ国民にとって何が危険であるのかを理解していたのです。

政府の支出力と消費者の購買力を満足させる為に必要な通貨と信用の創出、発行及び流通は政府が行うべき事柄である。

通貨の創出と発行に係る特典は政府に属する最高の特権であるのみならず、政府が創造的活動を行う最大の機会でもある。

これらの諸原則を採用する事で納税者達は莫大な金額の利子を支払わずに済むようになる。通貨は人間性の主人たるを止め、それに仕えるものとなるだろう。」
エイブラハム・リンカーン

1:23:33

ロンドンタイムズ紙の実に信じ難い次の社説は中央銀行らがリンカーンのグリーンバック紙幣をどの様に考えていたかを明らかに示しています

もし北アメリカを起源とするこの有害な金融政策をそれが固定的なものとなるまで耐え忍ぶ様な事があれば、政府は自らの通貨を何ら費用をかけずに賄う様になる。
通商交易に必要な通貨を全て自前で持つ事になり、世界の歴史に例を見ない繁栄を遂げる事になる。
全ての国々の頭脳と富が北アメリカに流出するだろう。
あの国は破壊されなければならず、さもなければあの国が地球上のあらゆる君主制度を破壊するだろう。

ロンドンタイムズ

1:24:18

その計画は功を奏し、それが余りにも効果的であった為に北部合衆国軍と南部連合国軍が南北戦争の決戦に向けて総力を結集し始めた次の年、また、財務省がグリーンバック紙幣を増刷発行する為に議会の承認を必要としていた年でもある1863年にリンカーンは銀行家達が国立銀行法の制定に向けた議案を推進するのを許しまったのです。これらの新しい国立銀行群は事実上の非課税法人で、新たな形式の通貨である銀行券を発行する独占的権利を共同で保有したのです。グリーンバック紙幣は継続して流通に付されましたがその数が増やされる事はありませんでした。

1:24:58

しかし、最も重要なのはこの時点を境に合衆国の貨幣供給が合衆国から購入した国債を銀行券の準備金に為に発行していた銀行の借入金をベースに行われていたと言う事です。

合衆国から国債を購入する銀行が銀行紙幣の準備のために創り出す貨幣

南北戦争からかなりの歳月を経た後、連邦政府には大きな黒字が続いていた。
政府は(しかしながら)借金の弁済や証券類の償還を果たし得なかった。
何故なら、それをすると国家の銀行券を裏付ける保証がないと言う事になるからだ。
借金の返済は貨幣供給の崩壊を意味したのである。

ジョン・ケネス・ガルブレイス

1:25:36

1863年の後期にリンカーンはロシアの皇帝であったアレキサンダー2世からある予期せぬ助けを得ました。皇帝は、ドイツのビスマルクの同様に、国際的な両替商達が何を企んでいるのかを知っており、彼らがロシアで中央銀行を設置するのを断固として拒否したのです。もしアメリカが生き延びて彼らの手中から逃れたままで居られれば皇帝の地位も安泰で居られたのです。
銀行家達がまんまとアメリカを分割して中央銀行がコントロールしている英国とフランスに返還する様な事にでもなれば、やがて彼らはロシアを再び脅かす事になります。それ故、皇帝はもし英国やフランスが積極介入してアメリカ南部連合を支援する様な事態になればロシアはそれを宣戦布告であると見なすよう命じたのです。彼はそれを自らの太平洋艦隊の一部から発令し、艦隊をサンフランシスコ港に送り出したのです。
リンカーンは翌年の1864年に再選されました。リンカーンが暗殺されていなければ、戦争中に彼の手元から引き抜かれた国立銀行の独占的紙幣発行権を間違いなく潰していた事でしょう。

「金力は平和な時には国家を捕食し、逆境の時には陰謀を企む。
それは君主よりも横暴であり、独裁者よりも傲慢であり、官僚よりも我儘である。」

エイブラハム・リンカーン

1:27:08

国立銀行法案の可決に向けて私が推進役を務めた事は私の生涯で最も大きな財政上の過ちでした。
それはあらゆる国益を蝕む独占的権利を築き上げてしまったのです。

サルモン・ピー・チェイス

1:27:36

リンカーンが二度目の大統領に就任してから41日後、リー将軍がアポマドックスでグラント将軍に降伏した僅か五日後に当たる1865年の4月14日、リンカーンはフォード劇場でジョン・ウィルクス・ブースの凶弾に倒れました。ドイツの宰相ビスマルクはエイブラハム・リンカーンの死を嘆いて次の様に述べています

「リンカーンの死はキリスト教世界にとって最悪の事態である。
彼ほどに偉大な人物の後任になり得る者は合衆国には最早いない・・・
私は外国の銀行達がずる賢さと捻くれた策を弄して
アメリカに於ける有り余るほどの富の総てを支配すると共に
組織的にそれを使用して現代文明を堕落させる事になるのを恐れる。
彼らは地球を自らの相続財産とする為には何ら躊躇う事なく
キリスト教世界全体を戦争と大混乱の淵に陥れるだろう。

オットー・フォン・ビスマルク

ビスマルクは両替商達の計画を十分解っていたのです。
国際銀行家がリンカーンの暗殺に関与したと言う疑惑は70年後の1934年にカナダで浮上しました。

1:28:27

カナダの著名な法律家であるジェラルド・ジー・マギアーはカナダの庶民院(下院)で行った債務を基にしたカナダの金融システムを糾弾する5時間に及ぶ演説の中で驚愕すべき嫌疑を明らかにしています。
それがカナダでも猛威を振るっていた世界大恐慌の真っ只中にあった1934年であった事に注意しましょう。マギアーは(リンカーンを暗殺した)ジョン・ウィルクス・ブースの裁判に於ける検察局の捜査官達がブースの死後に提供し、後に公文書から削除された証拠類を入手していたのです。マギアーはその証拠書類がブースの国際的銀行家達に仕えていた金目当ての雇われ人であった事を示していると述べています。1934年5月2日付けバンクーバー・サン紙の記事に拠ると、「殉教した奴隷の解放者であるエイブラハム・リンカーンが暗殺されたのは国家的信用供与の野望を抱くアメリカ大統領を恐れていた国際的銀行家達を代表するグループの策謀によるものであった。リンカーンの死を願う何らかの理由を持ったグループは当時一つしかなかった。彼の国家通貨計画に反対し、南北戦争全体を通じて彼のグリーンバック紙幣政策を巡る闘いに明け暮れていた者達がいたのである。」

1:29:53

興味深いのは、マギアーがリンカーンの暗殺は国際的銀行家達がアメリカで中央銀行を再建しようとしていたからだけではなく、アメリカの通貨の基礎を金、彼らがその殆どをコントロールしている金塊に置きたかった為でもあると主張している事です。つまり、アメリカを金本位制にしようと目論んでいたのです。しかし、リンカーンは合衆国の純然たる善意と信用にのみその基礎を置く合衆国証券、グリーンバック紙幣を発行する事によってその企てと真っ向から相反したのです。その新聞記事は、マギアーの言葉として、彼らが金本位制度ならびに世界のあらゆる国々の通貨と信用を管理する銀行家達の権利を確立する事に関心を抱いている人々であると報じています。リンカーンが居なくなった事で、彼らはその計画を合衆国で推し進める事が出来る様になり、実際にその様にしたのです。リンカーンの暗殺後8年も経たない中に合衆国では銀が廃貨となり、金本位の通貨制度が設定されました。

1:30:51

リンカーン以来、負債の伴わない米国紙幣が米国で印刷された試しは一度もありません。1963年に発行され赤いシールが施されたこれらの紙幣はケネディー大統領が新たに発行したものではなく、単に毎年のように再発行されている旧いグリーンバック紙幣なのです。

1:31:10

今ひとつの無知な愚行はリンカーンのグリーンバック紙幣を債務ベースの紙幣と差し替える事を実際に認めた1994年のリーグル法です。つまり、グリーンバック紙幣が米国で流通していたのは1994年迄だったのです。

1:31:30

銀行家にとって銀は悪く、金を良いとするのは何故なのでしょうか?答えは簡単です。銀は合衆国に豊富に存在しているためコントロールするのが非常に難しかったからなのです。金は過去から現在に至るまで常に希少でした。歴史を通して金を独占する事は比較的容易でしたが、銀は歴史的に15倍も豊富に存在していたのです。

 

【引用終了】

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◆動画『The Money Masters』の翻訳テキスト page.4

 (1:31:54~2:02:39)

Anti-Rothschild Alliance 資料室

2009-01-03

お金を操る者達

国際的銀行家達はどの様にアメリカを掌握したのか

Page.4

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【引用開始】

1:31:54

18. 金本位制の復帰

リンカーンが排除された後に両替商達が目指した次の目標はアメリカの貨幣を完全に支配する事です。これは簡単な事ではありませんでした。
アメリカの西部開拓と共に銀が大量に発見されました。それに加えてリンカーンのグリーンバック紙幣は広く受け容れられていました。ヨーロッパの中央銀行のグリーンバック紙幣に対する意図的な攻撃にも拘わらず、グリーンバック紙幣は合衆国で流通を続け、実際に数年前まで出回っていたのです。
歴史家のクレオン・スクーセンは次の様に述べています。

南北戦争の直後にリンカーンが短期的に行った合憲的通貨制度の実験的取り組みに関する論議が盛んに行われました。
ヨーロッパに於ける通貨信託の介入がなければそれは間違いなく確立された制度となっていたでしょう。

クレオン・スクーセン

1:32:23

負債を伴わない自らの紙幣を発行すると言うアメリカの考え方がヨーロッパ中央銀行のエリート達に衝撃的な波紋を投げかけたのは明らかです。彼らはアメリカ国民がより多くのグリーンバック紙幣を発行するよう強く要求しているのを恐怖の目で見詰めていたのです。彼らはリンカーンを殺害しましたが、貨幣についての彼の考えに対する支持は日増しに高まっていました。

1:33:04

リンカーン暗殺の約1年後、1866年4月12日、連邦議会はヨーロッパの中央銀行らの命を受けた仕事に取り掛かりました。流通しているグリーンバック紙幣の一部引き上げを開始する権限を財務省に与え、それによって通貨を収縮する引締法案を可決成立させたのです。

1:32:27

作家のテオドール・ソレンとリチャード・ワーナーは彼らの有名な本の中で、貨幣供給量の削減がもたらした結果について次の様に説明しています

「南北戦争後の困難な時代はグリーンバック紙幣に関して制定された法律がリンカーン大統領の意図した通りに継続されていれば避ける事ができたであろう。しかし、そうしなかった為に我々のいわゆる不況、つまり、一連の金融恐慌が起こり、それが議会に圧力をかけて金融システムを中央管理下に置く法律が制定された。そして、最終的に連邦準備法が19131213日に成立する事となったのである。」

1:34:08

これを言い換えると、両替商達は二つの事を欲していると言う訳です。一つは中央銀行を再び設置して自らの独占的管理下におく事、二つ目はアメリカの通貨を金本位にさせる事です。彼らの戦略も二通りになっていました。第1番目の戦略は一連のパニック状態を創り出してアメリカ人に経済の安定化は貨幣供給の中央管理に拠ってのみもたらされると信じ込ませる事です。そして二番目の戦略は殆どのアメリカ人が銀行家達の事を気に掛ける暇などない、或いは彼らに反対するには余りに弱小な絶望的貧困者とする為に必要な大量の貨幣をその通貨体制の中から取り除いてしまう事です。

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1:24:45

南北戦争後の不況

西暦年 貨幣量総額 国民一人当たり
1866   18億ドル   50.46ドル

1866年、アメリカ合衆国 で流通していた通貨量は18億ドル、国民一人当たりに直すと約50.46ドルでした。
1867年だけで合衆国の貨幣供給量から5億ドルが除去されました。10年後の1876年に於ける貨幣供給量は僅か6億ドルに縮減されています。つまり、米国の通貨の三分の二が銀行家達によって回収された事になる訳です。

1:36:23

南北戦争後の不況
西暦年 貨幣量総額 国民一人当たり
1866   18億ドル   50.46ドル
1867   13億ドル   44.00ドル
1876     6億ドル   14.60ドル
1886     4億ドル   6.67ドル

10年後の貨幣供給は人口が急上昇したと言うのに僅か4億ドルに縮減されたのです。その結果、貨幣の流通量は国民一人当たり僅か6.67ドルに留まり、何と760%の購買力が20年間で失われた事になります。

1:35:45

今日、エコノミスト達は不況や恐慌が彼らの所謂「景気循環」、つまり何か自然的現象の一部であるかの様に思わせようとしています。しかし、その真相は我々の貨幣供給が嘗てそうであり、南北戦争後もそうであったのと同様、今でも相変わらず操られていると言う事なのです。

1:36:02

それは如何にして起きたのでしょうか?貨幣がそんなにも不足したのは何故でしょうか?答えは簡単です。銀行が貸付金を回収し、新たな貸付を行わなかったからなのです。それに加えて銀貨も崩壊させられてしまったのです。

1:36:16

1872年、アーネスト・サイドと言う人物がイングランド銀行から約50万米ドルに相当する10万英国ポンドを握らされて銀を廃貨にする為に必要な議員を買収すべくアメリカに送られて来ました。彼はもしその金額が不十分であれば更に10万ポンドを、もしくは必要なだけ引出すように言われていたのです。

1:38:42

その次の年、議会は1873年の貨幣法案を通貨させ銀のドル貨が突如として鋳造されなくなりました。実際、その法案を議会に提出したサムエル・フーパー下院議員はそれを実際に起草したのがサイド氏であった事を認めています。しかし、事態はより深刻なものとなりました。1874年、サイド自らがその策動の背後にある人物がいる事を認めたのです。

「私が、もし可能であれば、銀を廃貨にする法案の通過を確実なものとするよう委任されてアメリカに来たのは187273年にかけての冬でした。それは私が代理していた本人 -イングランド銀行の理事達- の利益の為にした事です。1873年までに金貨が唯一の鋳造貨幣となりました。」
アーネスト・サイド

1:37:34

しかし、アメリカの貨幣の支配を巡る争いは未だ終っていませんでした。この僅か3年後の1876年にはアメリカの労働者の三分の一が失業状態におかれましたが、人口は弛まず急増を続けていました。人々はリンカーン大統領のグリーンバック紙幣制度や銀貨の復旧、貨幣量をより多くする如何なるものも強く求める様になっていたのです。

1:38:00

その年、議会はこの問題を研究する為に合衆国銀委員会を立ち上げました。この委員会の報告書は通貨の収縮に対する国立銀行の責任を明確に追求しています。

「暗黒時代の厄災は貨幣の削減と価格の低落に起因する貨幣がなければ文明の始まりは有り得べくもなく、貨幣の量が減少して行けば文明は間違いなく衰退し、救済されなければ終に滅亡する。」

「キリストの時代に於けるローマ帝国の金属貨幣は18億ドル相当に及ぶものであったが、15世紀の終わりまでに20万ドル未満にまで縮減した ローマ帝国から暗黒の時代へと移り変わったこの様な悲惨な変遷は歴史にその類を見ない
合衆国銀委員会

1:39:04

この銀委員会の報告書にも拘わらず、議会は何ら行動を起こしませんでした。次の年の1877年、ピッツバーグからシカゴに至るまで暴動が発生しました。飢餓に苦しむ暴徒達の松明が空を照らしたのです。銀行家達はそれをどうするか決めるために談合しましたが、その決定たるやそのまま踏み止まると言うものでした。今や支配を取り戻したのであるから、それを諦めるような事はしないと言う訳です。その年に開かれた米国銀行協会の会合で彼らは協会員に対し、彼らの権力で出来る総ての事を行ってグリーンバック紙幣の復帰と言う考え方を扱き下ろすよう駆り立てています。この米銀協(米国銀行協会)の事務局長であったジェームズ・ブエルは協会員に対する書簡をしたため、議会のみならず報道界も堕落させるようあからさまに要求したのです。

「貴方の権力の総てを行使してグリーンバック紙幣の発行に反対する有名な日刊新聞や週刊新聞、特に農業および宗教関係の報道機関への支援はこれを維持し、また、政府による貨幣の発行に反対するのを渋る報道機関への支援は総て与えないとするのが望ましい。

銀行紙幣を創り出す法律を廃止したり政府が発行する貨幣を再び流通させたりすると人々にお金を提供する事となり、従って、銀行や貸出し業を営む我々の個人的利益に深刻な影響を与える事となる。

直ちに貴方の議員と会い、法律制定の制御に向けた我々の関心に支持を与えるべく確約させるよう求める。」
米国銀行協会ジェームズ・ブエル

1:40:33

議会では変化への政治的圧力が高まり、報道界はアメリカ国民の目を真実から遠ざけようとしました。1878年1月10日付のニューヨーク・トリビューン紙は次の様な報じ方をしています

「我国の議事堂は漸く纏りを得たが、議会がそれでも敢えて分別に反する様な事をするか見ものである。」

1:41:38

3年後の1881年、アメリカ国民はジェームズ・ガーフィールドを大統領に選出しました。ガーフィールドは経済が如何に操られているか解っていました。下院議員だった時に歳出委員会の議長を務めており、また、銀行及び通貨委員会の委員でもあったのです。大統領に就任した後の1881年、彼は両替商達を公然と非難しました

誰であろうと貨幣の量を制御する者は全ての産業と商業の絶対的な主となるそして最上部にいる一握りの有力者達がシステム全体を何らかの方法で極めて容易にコントロールしているのを知るや、インフレと不況の時期が何に由来するのか、自ずと明白になる。」
ジェームズ・ガーフィールド

残念な事に、この声明を発した数週間後の1881年7月2日にガーフィールド大統領は暗殺されてしまったのです

【引用終了】

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1件のコメント on 【リンカーン大統領の暗殺の真実=1865/4/14聖金曜日・銃撃】グリーンバック=政府発行紙幣を合衆国の永続的な通貨発行システムとしたリンカーンを1865年フォード劇場で銃撃したジョン・ウィルクス・ブースは国際銀行家に雇われていた。1934年、ジェラルド・G・マクギア 暗殺後8年後には銀は廃貨。シークレットサービスは元々、偽札防止のために設立されていた。

  1. Name より:

    スイス当局とCIAによると以下の人物が私への6月の暗殺未遂を支持したと言う事実が録音された:Leo Zagami, Daniel Dal Bosco, Vincenzo Mazzara。(BenjaminFulford)
    http://benjaminfulford.typepad.....81%95.html

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